wrm感想 491号 SNSと距離を置く話
自分は、昨年末にtwitterアカウントを消去した
理由はここに書いた
twitterアカウントを消去する旨を10月半ばに書いて、そのとおりに2ヶ月たって12月23日に消した。
twitterは、2009年の12月からやっていた。10年、か
手慰みいじいじ感がすごかった。常にいじっていた。スマホになってからの加速がすごい
そして自分は、「twitterをやっている自分」が恥ずかしくて嫌いだった
「twitterはやらなければやらないほどハードボイルドクールでかっこいい」と思っていた
自分のホムペを淡々と更新している人に憧れていた
今回のこのメルマガの「依存」的な描写は、すごいひしひしと、こう、実体験がひしひしと
「時間術の本」を読んで、時間を作ろう、としているのも、それはそれで強迫的に聞こえましたですはい
なお、スマホからtwitterアプリを削除する、っていうことは自分は何度もしましたが、やがて自分は「ブラウザからtwitterに直にログイン」という手段をやりはじめましたね。しかもそれは洗練されていって、無意識にすっすっとブックマークどころか、履歴欄からtwitterのURLにアクセスする術を学んで、オイオイそれって雨の中でも自販機にタバコを買いに行く的行動じゃねえかと
自分にとってスマホ依存っていうのは、「活字依存」だった
手を動かしたかった。活字でない、非=活字の行動をしたかった
絵を描くとか、楽器を奏でるとか、模型を作るとか
自分は、そこまで活字に、全幅の信頼を置いていない
活字は、言語思考は、所詮「現実の劣化コピー」にすぎないという考えがある
もちろん、言語のみで構築する芸術を「文学」と呼ぶのだけど
けれど、文学のセンスの源泉もまたある程度は「非=活字」の「自然」に属するものだと思う
もっといえば、自分がかつて鬱病とか強迫神経症になっていったのは、「現実を過度に言語化、ルール化しようとしていたから」とすらいえる。今となっては
言語にあてはめれば、安心できると思っていたのだ
現実は、もっと残酷で、あっという間に無意味に「死」ぬのだ
死ぬのだ、死をもたらすのだ